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壱岐島の歴史が深すぎる|古事記から元寇まで時系列で解説

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壱岐島(いきしま)と聞いて、何を思い浮かべますか。



エメラルドグリーンの海、とろける生ウニ、博多からジェットフォイルで1時間——。多くの人が「離島リゾート」としての壱岐を想像するでしょう。実際、トリップアドバイザーには「小さな島なので一日観光で十分です。インパクトは少ないと思います」という声もあります。

正直に言うと、自分も最初はそう思っていました。九州出張の帰りに「ちょっと寄ってみるか」の軽い気持ちで博多港からジェットフォイルに飛び乗り、海の綺麗さに感動して、ウニ丼を食べて、猿岩を眺めて帰ってきた。それだけでも十分満足でしたが、「また来たい」と思うほどの強烈な引力は感じなかったんです。

ところが、帰宅後にふと壱岐島の歴史を調べ始めて、衝撃を受けました。

古事記の国生み神話で日本で5番目に生まれた島。魏志倭人伝に「一支国(いきこく)」として記され、弥生時代には国際交易都市があった。約280基の古墳が眠り、元寇では蒙古襲来の最前線となり、島民が壮絶な戦いを強いられた——。

この小さな島に、日本の歴史がまるごと凝縮されていたんです。

じゃらんの口コミには「ドライブにちょうど良いサイズの島。神社や古墳群など盛りだくさんで、歴史が好きな人にはハマる島です」という声がありました。これは2回目の壱岐旅行で身をもって実感しました。歴史を知ってから訪れると、ビーチも神社も猿岩も古墳も、すべてが「物語のある風景」に変わるんです。

この記事では、壱岐島の歴史を古事記の神話から近代まで、時系列でわかりやすくお伝えします。旅行前に読んでおくと、壱岐の景色がまったく違って見えるはずです。

壱岐島の全体ガイドはこちら(観光・アクセス・宿泊・グルメ総合)

目次

古事記の国生み神話——壱岐島は日本で5番目に生まれた島

壱岐島の歴史は、日本最古の歴史書『古事記(こじき)』から始まります。それも、日本という国そのものが生まれる場面に、壱岐の名前が登場するんです。

イザナキとイザナミが生んだ大八島国、5番目が壱岐

古事記によると、神々の父母であるイザナキとイザナミは、天の浮橋(あめのうきはし)から矛(ほこ)で海をかき回し、次々と島を生み出しました。これが「国生み神話」です。

生まれた順番は、こうです。

  • 1番目:淡路島(あわじしま)
  • 2番目:四国(いよのふたなのしま)
  • 3番目:隠岐(おきのみつごのしま)
  • 4番目:九州(つくしのしま)
  • 5番目:壱岐(いきのしま)
  • 6番目:対馬(つしま)
  • 7番目:佐渡(さどのしま)
  • 8番目:本州(おおやまとのとよあきつしま)

淡路島、四国、九州、本州といった「メジャーどころ」に混じって、壱岐が5番目に名前を連ねている。正直、初めて知った時は驚きました。面積約134平方キロメートルの小さな離島が、日本という国の成り立ちに名前を刻んでいるわけです。

しかも壱岐には、古事記の中で特別な別名が与えられています。「天比登都柱(あめひとつばしら)」——天と地を結ぶ一本の柱、という意味です。玄界灘の海上にぽつんと浮かぶ壱岐島が、古代の人々にとって「天と地をつなぐ神聖な存在」だったことがうかがえます。

えっ、壱岐島って古事記に出てくるの!?日本で5番目って、めちゃくちゃ由緒ある島じゃん!

そうなんですよ。自分も最初の旅行では知らなかったんですが、調べてみたら壱岐の歴史の深さに驚きました。「天と地を結ぶ柱」なんて、ロマンがありますよね

150社以上の神社が残る「神の島」の原点

壱岐島には、人口約2.5万人の島に150社以上の神社が存在します。単純計算で170人に1社。全国的に見ても異常な密度です。

なぜこれほど多くの神社があるのか。その答えが、まさにこの国生み神話にあります。古事記で「天と地を結ぶ柱」と名付けられた壱岐は、古来より「神の島」として信仰の対象でした。島全体が神聖な場所であるという認識が、時代を超えて受け継がれてきたんです。

中でも注目すべきは月読神社(つきよみじんじゃ)。天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟である月読命(つきよみのみこと)を祀り、全国にある月読神社の総本社とされています。京都の松尾大社の摂社として知られる月読神社も、元をたどればここ壱岐が起源だとする説があるほどです。

壱岐を訪れて神社巡りをすると、この島がただの「パワースポット」ではなく、日本の信仰文化の根源に触れる場所なのだと感じます。

壱岐島の神社&パワースポット巡りの詳細はこちら

魏志倭人伝の「一支国」——弥生時代の国際交易都市

国生み神話の時代から一気に時計の針を進めると、壱岐島は再び歴史の表舞台に登場します。今度は日本の書物ではなく、中国の歴史書の中に。

2,008文字の中に記された壱岐の姿

3世紀に書かれた中国の歴史書『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』。邪馬台国や卑弥呼で有名なあの書物に、壱岐は「一支国(いきこく)」として登場します。※学術的には「一大國」とする写本もありますが、「一支國」が通説です。

魏志倭人伝はわずか2,008文字(原文)という短い文献ですが、その中で一支国には57文字が割かれています。これは対馬国、伊都国(いとこく)に次ぐ情報量。当時の中国人にとって、壱岐は無視できない存在だったということです。

記されている内容を現代語に直すと、こんな感じです。

「(一支国は)四方約300里。3千ほどの家がある。土地は狭く田畑が少なく、海産物を食べても足りないので、南北に海を渡って穀物を買い入れている」——魏志倭人伝(現代語訳・要約)

1,700年以上前の記述ですが、「島の面積に対して人口が多い」「田畑が足りないから交易で補っている」という構図は、実は現代の壱岐にも通じるものがあります。壱岐は今でも食料自給率こそ高くありませんが、海産物の豊富さと対外交易(今でいう観光業や物産輸出)で成り立っている島なんです。

原の辻遺跡——魏志倭人伝に記された唯一の確認済み王都

ここからがすごい話なんですが、魏志倭人伝に登場する国の中で、王都の位置が考古学的に確認されたのは一支国だけです。邪馬台国は未だに場所が確定していませんよね。伊都国も諸説あります。でも一支国だけは、壱岐島の原の辻遺跡(はるのつじいせき)が王都だと特定されているんです。

原の辻遺跡からは、中国大陸や朝鮮半島の土器、鉄器、青銅器が大量に出土しました。さらに日本最古の船着場跡も発見されています。弥生時代の壱岐が、大陸と日本列島を結ぶ国際交易の一大拠点だったことが、ここから明らかになったわけです。

壱岐島でタクシーに乗った時、運転手さんが「壱岐は各エリアで全然雰囲気が違うんですよ。芦辺は静かで古墳が多い」と教えてくれたんですが、まさにその芦辺エリアに原の辻遺跡があります。観光客で賑わう郷ノ浦や勝本とは違う、どこか歴史の重みを感じる静かな空気が流れていました。

現在、遺跡のそばには一支国博物館(いきこくはくぶつかん)が建っています。設計は新国立美術館でも知られる建築家・黒川紀章(くろかわきしょう)氏。館内ではCGやジオラマで弥生時代の壱岐を体験でき、歴史好きでなくても純粋に楽しめる施設です。

邪馬台国の場所はまだわからないのに、一支国の王都はわかっているんですね。それって実はすごいことなんじゃないですか?

まさにその通りです。魏志倭人伝のロマンが「実在の場所」として確認できるのは壱岐だけなんですよ。一支国博物館は壱岐旅行で外せないスポットですね

原の辻遺跡&古墳群の詳細ガイドはこちら

古墳時代——280基の古墳が語る島の繁栄

弥生時代の一支国から時代が進み、古墳時代に入っても壱岐の存在感は衰えません。むしろ、この時代の壱岐はさらに驚くべき姿を見せます。

長崎県の古墳の約6割がこの小さな島に集中する理由

壱岐島には約280基の古墳が残っています。この数字だけだとピンと来ないかもしれませんが、これは長崎県全体にある古墳の約6割に相当します。長崎県の面積に対して壱岐島が占める割合はわずか3%程度。その3%の土地に、県の古墳の6割が集中しているんです。

なぜこれほど古墳が多いのか。理由は壱岐の地理的な優位性にあります。

古墳の大半は6世紀後半〜7世紀前半に造られたもので、大陸との交易で栄えた首長層の墓と考えられています。壱岐は弥生時代に引き続き、古墳時代もヤマト政権と大陸(中国・朝鮮半島)を結ぶ海上交通の要衝でした。この島を支配する豪族は莫大な富と権力を持ち、その権勢の象徴として古墳を築いたわけです。

出土品の多くが国の重要文化財に指定されており、大陸からもたらされた装飾品や武器などの副葬品が、壱岐の国際的なつながりを物語っています。

必見の古墳4選——双六古墳・鬼の窟・笹塚・掛木

壱岐島の古墳群の中でも、特に訪れる価値がある4つをご紹介します。

スクロールできます
古墳名特徴見どころ
双六古墳(そうろくこふん)長崎県最大の前方後円墳・国指定史跡全長91m。壱岐の豪族の権勢を象徴する最大級の古墳
鬼の窟古墳(おにのいわやこふん)島内2番目の規模の円墳巨石で組まれた石室が圧巻。「鬼の窟」の名の由来を現地で感じる
笹塚古墳(ささづかこふん)石室の内部に入れる貴重な古墳実際に石室に入ると、1,400年前の空気を肌で感じられる
掛木古墳(かけぎこふん)長崎県唯一のくりぬき式家形石棺巨大な一枚岩をくりぬいた石棺は必見。技術力の高さに驚く

古墳巡りは地味に聞こえるかもしれませんが、実際に足を運ぶと印象が変わります。特に笹塚古墳で石室の中に入った時は、1,400年前の壱岐の豪族がここに眠っていたのかと思うと、ちょっと背筋がぞくっとしました。

古墳群の回り方・アクセス情報はこちら

律令時代——防人と亀卜の島

古墳時代が終わり、日本が律令国家としての体制を整えていく時代。壱岐はこの時期、国の正式な行政区分として「壱岐国(いきのくに)」となり、新たな役割を担うことになります。

壱岐国の成立と白村江の戦い

大和朝廷の時代、壱岐は令制国の一つ「壱岐国」に定められました。島内には国府(今でいう県庁のような行政機関)と国分寺(嶋分寺/しまぶんじ)が置かれ、れっきとした一つの「国」として運営されていたんです。面積134平方キロメートルの島が一つの国。壱岐がいかに重要視されていたかがわかります。

壱岐の戦略的重要性が一気に高まったのが、白村江の戦い(はくすきのえのたたかい・663年)です。日本が百済(くだら)を支援して唐・新羅(しらぎ)連合軍と戦い、大敗を喫したこの戦いの後、朝廷は大陸からの侵攻に備えて九州北部と離島の防備を固めました。

壱岐には防人(さきもり)が配置されました。防人とは、東国(関東地方)から徴兵されて九州の国防にあたる兵士のこと。故郷から遠く離れた壱岐の地で、大陸からの脅威に備えて見張りを続けた彼らの心情は、万葉集にも切ない歌として残されています。

亀卜と遣唐使——大陸文化の窓口

壱岐は国防だけでなく、占いの拠点としても知られていました。

亀卜(きぼく)——カメの甲羅を火であぶり、ひび割れの模様で吉凶を占う技法です。壱岐は対馬・伊豆とともに、この亀卜の三大拠点の一つでした。亀卜の技法は大陸から伝わったもので、壱岐がいかに大陸文化の窓口だったかを物語るエピソードです。

また、遣唐使(けんとうし)のルートも壱岐と深い関わりがあります。初期の遣唐使は壱岐・対馬を経由して朝鮮半島沿いに中国大陸へ渡るルートをとっていました。壱岐は文字通り「日本と大陸をつなぐ中継点」だったんです。

こうして見ると、壱岐島は古代から一貫して「海の向こうとこちらをつなぐ島」としての役割を果たしてきたことがわかります。その地理的宿命は、次の章で最も過酷な形で壱岐を襲うことになります。

元寇——蒙古襲来の最前線となった壱岐島

壱岐島の歴史の中で、最も壮絶なページがここです。鎌倉時代、モンゴル帝国(元)の大軍が二度にわたって壱岐島を襲いました。いわゆる元寇(げんこう)——蒙古襲来です。

文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の概要

最初の襲来は文永の役(ぶんえいのえき・1274年)。元と高麗(こうらい)の連合軍約2万8千人が、900隻以上の軍船で対馬を攻めた後、壱岐に上陸しました。

迎え撃ったのは壱岐の守護代・平景隆(たいらのかげたか)。わずか100余騎で圧倒的な大軍に立ち向かいましたが、多勢に無勢。壱岐島は蹂躙(じゅうりん)され、景隆は自害して果てました。島民への残虐行為も記録に残っており、壱岐島の歴史で最も暗い一ページです。

7年後の弘安の役(こうあんのえき・1281年)では、東路軍約4万人が再び壱岐に上陸。この時、壱岐を守ったのは若干19歳の少弐資時(しょうにすけとき)でした。船匿城(ふなかくしじょう)で奮戦しましたが、衆寡敵せず壮絶な最期を遂げたと伝えられています。

壱岐島には今でも「ムクリコクリが来るぞ」という言い回しが残っています。「ムクリ」はモンゴル、「コクリ」は高麗を指し、元寇の恐怖が750年以上経った今も島の文化に刻まれているんです。

19歳で何万もの敵軍と戦ったって…少弐資時、かっこよすぎないか…?

壱岐神社に資時の像があるんですが、実際に見ると胸に込み上げるものがあります。壱岐の歴史を語る上で絶対に外せない人物ですね

今も残る元寇の記憶——史跡と伝承

壱岐島には、元寇にまつわる史跡が数多く残っています。

  • 壱岐神社:少弐資時を祀る神社。弘安の役の激戦地の近くに建つ
  • 少弐資時の墓:19歳で散った若武者の墓。静かな場所にひっそりと
  • 新城神社(しんじょうじんじゃ):文永の役で自害した平景隆を祀る
  • 千人塚:元寇で犠牲になった島民を弔う塚
  • 元寇の碇石(いかりいし):元軍の船に使われていた石碇。実物が残っている

元寇の歴史はこの記事だけでは語りきれないほど深く、壮絶なドラマがあります。壱岐島を訪れるなら、ぜひ元寇の史跡を巡ってみてください。島の人々が750年守り続けてきた記憶に触れることができます。

元寇の歴史と史跡巡りの詳細はこちら

島流しの歴史——流刑地としての壱岐

壱岐島の歴史には、もう一つの顔があります。それが流刑地(るけいち)としての歴史です。華やかではありませんが、壱岐の文化を考える上で見逃せない一面です。

なぜ壱岐は流刑地に選ばれたのか

古代から中世にかけて、壱岐は政治犯や罪人の流刑地として使われました。その理由は地理的条件にあります。本土から近いが、海で隔てられている——逃亡が難しく、かといって死刑にするほどではない罪人を送るには「ちょうどいい距離感」だったわけです。

奈良時代には、藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん・740年)の関係者が壱岐に配流されたという記録があります。中央政権の権力闘争に敗れた人々が、玄界灘の向こうに送られていったんです。

ただ、流刑が壱岐にとって暗い歴史だけだったかというと、そうでもありません。流された人物が都の文化を壱岐に伝えた側面もあり、壱岐の文化の多様性に貢献した面もあると考えられています。

松尾芭蕉の弟子・河合曽良の最期

流刑とは少し文脈が異なりますが、壱岐で生涯を閉じた著名人がいます。河合曽良(かわいそら)——松尾芭蕉の弟子で、あの『おくのほそ道』の旅に同行した人物です。

曽良は晩年、幕府の巡見使随員として九州に赴き、壱岐の勝本(かつもと)で客死しました。現在も勝本に曽良の墓があり、訪れることができます。

『おくのほそ道』を読んだことがある方なら、その旅の同伴者が壱岐で最期を迎えたという事実に、少し感慨を覚えるのではないでしょうか。壱岐は日本文学史ともこうした意外な接点を持っているんです。

近世から近代へ——壱岐焼酎と国防の要衝

江戸時代以降の壱岐は、「焼酎」と「国防」という二つのキーワードで語られます。島の個性が、歴史の中で独自の文化として結晶した時代です。

麦焼酎発祥の地・壱岐——400年以上の伝統

壱岐島は麦焼酎発祥の地です。江戸時代、壱岐は平戸藩の領地として統治されていましたが、この時代に麦を原料とし、米麹(こめこうじ)を使った焼酎づくりが始まりました。その歴史は400年以上。

しかも壱岐焼酎は、ただの地酒ではありません。1995年、WTO(世界貿易機関)の地理的表示(GI)に認定されました。これはスコッチウイスキー、シャンパーニュ、ボルドーワインなどと同じ扱い。つまり「壱岐焼酎」と名乗れるのは壱岐島で造られた焼酎だけ、という世界レベルの保護を受けているんです。

現在も壱岐には7つの蔵元が残り、それぞれが個性ある銘柄を造り続けています。

壱岐の居酒屋で飲んだ時、おかみさんに「お客さんには壱岐の蔵酒造の”壱岐の島”をまず飲んでみてって言うね。麦の香ばしさと米麹の甘みのバランスが一番わかりやすいから」と教えてもらいました。実際に飲んでみると、いわゆる「大分系の麦焼酎」とは明らかに違う。米麹の柔らかい甘みが麦の香ばしさを包み込むような味わいで、「ああ、これが400年の伝統か」と妙に納得しました。

ベルトラの壱岐島日帰りツアーの参加者も「麦焼酎発祥の地が壱岐で、他の麦焼酎とは製法が異なることがわかった蔵酒造見学が有意義だった」と語っています。歴史を知った上で蔵元を訪れると、一杯の焼酎が何倍も味わい深くなりますね。

壱岐島の焼酎&7蔵元ガイドはこちら

黒崎砲台と日本遺産認定

時代が明治・大正・昭和と進むと、壱岐は再び「国防」の文脈で歴史に登場します。

壱岐島の西端、あの有名な猿岩のすぐ近くに黒崎砲台跡(くろさきほうだいあと)があります。戦艦「土佐」の主砲を転用して建設された巨大砲台で、かつては東洋一の射程を誇ったとされています。実際には一度も実戦で使われることなく終戦を迎えましたが、コンクリートの巨大な遺構は今も残っており、当時の日本が壱岐をどれほど重要な防衛拠点と見なしていたかがわかります。

そして2015年、壱岐島の歴史の厚みが公式に認められる出来事がありました。「国境の島 壱岐・対馬・五島〜古代からの架け橋〜」が日本遺産の第1号に認定されたんです。

古事記の国生み神話、魏志倭人伝の一支国、元寇の激戦地、麦焼酎発祥の地——この記事で紹介してきた壱岐の歴史のすべてが、日本遺産認定の根拠になっています。小さな島に日本の歴史が凝縮されていることが、国としてお墨付きを得たわけです。

黒崎砲台跡や一支国博物館などの観光スポット情報はこちら

歴史を知ると壱岐旅行が変わる——まとめ

ここまで、壱岐島の歴史を古事記の国生み神話から日本遺産認定まで、時系列で駆け足で振り返ってきました。

改めて整理すると、こうなります。

  • 神話時代:古事記の国生みで日本5番目の島として誕生。「天と地を結ぶ柱」の名を持つ
  • 弥生時代:魏志倭人伝に「一支国」として記録。原の辻遺跡は唯一の確認済み王都
  • 古墳時代:約280基の古墳が集中。大陸交易で栄えた豪族の権勢を物語る
  • 律令時代:壱岐国として独立した一国に。防人が配置され、亀卜の拠点にも
  • 鎌倉時代:元寇の最前線。平景隆、少弐資時が壮絶な戦いを繰り広げる
  • 古代〜中世:流刑地としての歴史。河合曽良が勝本で客死
  • 江戸時代:麦焼酎発祥の地。400年以上の伝統がWTO認定の世界ブランドに
  • 近代〜現代:黒崎砲台の建設、そして2015年に日本遺産第1号認定

壱岐島の面積はわずか約134平方キロメートル。車で2時間もあれば一周できてしまう小さな島です。でもその島に、日本の歴史がまるごと詰まっている。古事記と魏志倭人伝の両方に名前が出てくる場所なんて、日本中探してもそうそうありません。

自分は壱岐島に初めて行った時、正直「海が綺麗な島だな」くらいの感想でした。でも歴史を知ってから2回目に訪れた時は、まるで違う島に来たような感覚でした。猿岩の近くにある黒崎砲台跡に立った時、「この島は古代から常に海の向こうとこちらをつなぐ場所だったんだな」と、何百年分の歴史が一気に重なって見えたんです。

壱岐旅行を計画されている方は、ぜひ旅の前にこの歴史を頭の片隅に入れておいてください。ビーチも、神社も、ウニ丼も、焼酎も——すべてが「物語のある風景」に変わります。

まずは一支国博物館と原の辻遺跡を起点にした歴史散歩がおすすめです。弥生時代の壱岐を体感した後に、古墳群や元寇の史跡を巡ると、時代の流れを肌で感じられますよ。

壱岐島は小さい島ですけど、歴史の深さは日本有数です。一支国博物館を起点に歴史散歩してみると、壱岐の見え方がガラッと変わりますよ

もっと詳しく知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

壱岐島と元寇の壮絶な歴史|蒙古襲来の地を訪ねる歴史散歩ガイド

壱岐島の原の辻遺跡&古墳群ガイド|弥生時代の国際交易都市を歩く

壱岐島は神社の島!150社を巡るパワースポット&スピリチュアルガイド

壱岐島グルメおすすめ15選|ウニ・壱岐牛・海鮮…島の絶品グルメ完全ガイド

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